マダム・マサコがいた時代

戦後、デザイナー、ジャーナリストとして活躍した女性、マダム・マサコの足跡を追いながら、戦後女性誌の変遷もあわせて見ていきます。

マダム・マサコ「モード案内・1」戦後パンツスタイル事情/映画「晩春」の月丘夢路

マダム・マサコ最初の著書「モード案内・1」。

 

 

装丁デザインなどはこちらの過去記事へどうぞ。

madamemasaco.hatenadiary.com

 

 

さて、「モード案内・1」の内容を見てみましょう。

 

イラストグラビア4pが続き、イラスト15点とともに、スタイルを紹介していますが、そのうち4点はパンツスタイルです。

 

戦後パンツスタイル事情

 

 

1.冬のスラックスも、やはり裾巾を広く作ることです。私のはいているものでも、裾巾三三糎あります。この寸法は、ご自分の足の長さの一倍半が、いちばんいいのです。そして防寒用には、オーヴア地を使ったりします。チェックのウールシャツは、スラックスによく似合うもので、それにやはり、女の人がしたほうがいいようです。(5p)

 

さらに次ページでもパンツスタイルを紹介し、こんなコメントを付けていました。

 

4.ズボンは、戦争中、ずつとはいてきましたので、どうもモンペ式の働き着を思い出して、余りなさらないようですが、戦争になる前、女の人のズボン姿というのは、とてもハイカラなもので、相当、シックな着こなしの人でないと、持っていなかったものです。夏はまっ白のシャーク・スキンなんかで、こんな裾巾の広いスラックス(ズボン)になさると、スカートよりも、もっと女らしくなるものです。(6p)

 

パンツ=モンペ 厳しい日常の延長を避ける気持ち

 

戦時中、美しく装う機会を奪われた女性たちは、モンペなどの働き着を彷彿とさせるパンツ(ズボン)を避け、プリンセスラインをはじめ、たっぷりと生地を用い、ふんわりとした女性らしいラインのスカートを支持したようです。

 

昭和23年(1948年)発行された、花森安治編集の雑誌「美しい暮らしの手帖」第一号に、森鴎外の次女・小堀杏奴(こぼりあんぬ)が寄稿したエッセイ「女のくらし」を読むと、パンツスタイルを敬遠する事情が推測できます。

 

〇衣服のことは今のところ手が廻りません。仕事を持っておりますから生活のうち「衣のこと」「食のこと」「住のこと」この三つのうち一番大切な食と次に住を心がけておりますが、食のことだけでもう一杯です。どうしても衣のことが後廻しになり、手もとどかない現状になっております。その一つの原因に今迄の着物はそのままではどうしても毎日のくらしに着られないのです。そして今このような紺がすりのモンペを着ております。たまにはおしゃれをしたいと思ってます、せめて日曜日位は働いている人達も小ざっぱりした着物に着かえて気をかえてみるといいと思うのですが。

小堀杏奴「女のくらし」「美しい暮らしの手帖」第一号 昭和23年(1948年)

 

食うや食わずで衣のことは後廻し、ふだんはモンペ姿で日々の生活の切り盛りに追われるばかりの日々を送っていれば、パンツスタイルをモンペ=厳しい日常の延長ととらえてしまっても仕方なかったのかもしれません。

 

当時の映画から、素敵なパンツスタイルを見つけました。

小津安二郎監督の「晩春」(昭和24年 1949年)です。

 

晩春 デジタル修復版
 

 

紀子(原節子)の女学校時代からの友人・アヤ(月丘夢路)。

紀子が、離婚して実家に戻り、タイピストとして働くアヤを訪問するシーンで、

アヤはゆったりとした幅のパンツをはきこなしています。

終戦後わずか4年で、非常に余裕のある生活ぶりなのですが、

マダム・マサコが「戦争になる前、女の人のズボン姿というのは、とてもハイカラなも

ので、相当、シックな着こなしの人でないと、持っていなかったものです」と書いてい

ますから、おそらくアヤの実家は戦前から富裕な家庭だったのかもしれませんし、

離婚し、タイピストとして働く若い女性という設定は非常に進歩的な女性像であり、ア

ヤのパンツスタイルは、そのシンボル的なものだったのかもしれません。

 

 

マダム・マサコが標榜するのはパリ仕込みのシックな装い。マダム・マサコは、これからもパンツスタイルの魅力をくり返し説いていきます。