マダム・マサコがいた時代

戦後、デザイナー、ジャーナリストとして活躍した女性、マダム・マサコの足跡を追いながら、戦後女性誌の変遷もあわせて見ていきます。

「細雪」と阪神大水害 戦前の田中千代

豪雨による河川の決壊、浸水、また緩んだ地盤による土砂崩れなど、7月11日現在、いまだ西日本を襲った災害被害の全容は明らかになっていません。

 

奇しくも昭和13年(1938)7月3〜5日、六甲山系の豪雨が土石流を引き起こし、約700名ともいわれる阪神大水害からちょうど80年の夏に、西日本を未曾有の大災害が襲ったことに、胸を痛めます。

 

www.asahi.com

 

 

阪神大水害を描いた「細雪

 

この80年の節目の今、このブログに書きたいことがあります。阪神大水害が描かれた小説、谷崎潤一郎の「細雪」のことです。

 

関東大震災を機に関西に移住し、3番目の夫人であり、ミューズであった松子夫人とその妹たち、三女重子、四女信子と生活を共にし、その様子は小説「細雪」に色濃く反映されていることは、よく知られていると思います。

 

細雪」は上巻、中巻、下巻の3巻からなる、谷崎唯一の大長編。その中巻は、信子をモデルとした四女の妙子の話しがメインとなっており、その中に阪神大水害を舞台にしたエピソードが描かれています。

 

妙子のモデル 信子が通っていた田中千代洋裁学院

 

当時、信子は武庫郡本山村(現在の岡本)にあった田中千代洋裁学院で洋裁を学んでおり、小説内では、妙子が洋裁学院で大水害に巻き込まれ、カメラマン板倉の懸命な救出により、九死に一生を得ることから、身分違いの恋がはじまるきっかけとなってしまう、妙子の人生のターニングポイントともいうべき、大切なシーンなのです。

 

少し本文から引いてみます。

 

その舞の会があってから、ちょうど一箇月目の七月五日の朝の事であった。

いったい今年は五月時分から例年よりも降雨量が多く、入梅になってからはずっと降り続けていて、七月に這入ってからも、三日に又しても降り始めて四日も終日降り暮らしていたのであるが、いつかの明け方からは俄に肺然たる豪雨となっていつ止むとも見える気色であった。

が、それが十二時間の後に、阪神間にあの記録的な悲惨事を齎した大水害を起こそうとは誰にも考えが及ばなかったので、蘆屋の家でも、七時前後には先ず悦子が、いつものようにお春に付き添われながら、尤も雨の身拵えだけは十分にしたことだけれども、大して気にも留めないで土砂降りの中を学校へ出かけて行った。(中略) 

 

松子夫人をモデルとした二女幸子の娘・悦子が、女中のお春に付き添われて、大雨の中学校へ向かいます。そのときお春が見たのは、尋常ではない雨の中、警戒している自警団の青年たち、蘆屋川の水量が堤防の上まで差し迫る様子でした。

 

それでもまだそんな大事に至ろうとは予想すべくもなかった。(中略)今度は妙子がエメラルド色のオイルシルクの雨外套を着、護謨靴を穿いて出かけようとした際にも、こいさん、まあえらい時に出かけるねんなあと、幸子が云ったことは云ったけれども、今朝は夙川ではなしに、午前中に本山村野寄の洋裁学院に行く日だったので、これぐらいな雨何でもあれへん、水が出たら却って面白いわ、などと冗談を云い云い出て行ったのを、止めないでしまった。ただ貞之助だけは今少し小降りになるのを待つ積りで、書斎で調べ物などをしながらぐずぐずしていると、やがてけたたましいサイレンの音を聞いたのであった。「細雪(中)」36p 新潮文庫

 

大雨の中、妙子は本山村野寄の洋裁学院へと向かって行きます。その後サイレンの音で外の様子を見に行ったお春は、水が山手から海の方へ勢いよく流れ、この家のすぐ近くまで迫っていることを知らせます。娘の悦子の小学校まではなんとかたどり着き、保護しますが、心配なのは妙子。なんと妙子が向かった本山村野寄の洋裁学院の方面はもっと被害が大きいということがわかったのです。

 

その後、幸子の夫・貞之助が妙子を救出するために向かいますが、そこで見たものは想像を絶するものでした。カメラマンの板倉に連れられて妙子が帰宅したのは、その日の夜になっていました。妙子はその時の様子を語ります。

 

八時四十五分頃に妙子は家を出て、いつものように国道の津知の停留所からバスに乗った。(中略)彼女は平常通り甲南女学校前で下り、そこからほんの一跨ぎの所にある洋裁学院の門をくぐったのは、九時頃であった。が、学院と云っても、のんきな塾のようなものであったし、何しろそう云う悪天候のことではあり、水が出そうだなどと云って騒いでいる場合であったから、欠席者が多く、出て来た者も落ち着かない有様なので、今日はお休みにしましょうと云うことになり、みんな帰ってしまったが、彼女だけは、妙子さん、珈琲を飲んで行かない、と、玉置女史にすすめられて、別棟になっている女史の住宅の方で暫く話していた。

 

女史と云うのは、妙子より七つ八つ年長の人で、工学士で住友伸銅所の技師をしている良人との間に小学校へ行っている息子が一人あり、自分も神戸の某百貨店の婦人服部の顧問をしつつ洋裁学院の経営をしているのであった。それで学院の隣に別な小さな門があって、そこに平屋建ての、西班牙風な瀟洒な住宅があったが、学院の校舎とは庭つづきで行け行けになっていた。妙子は先生と弟子と云う以上に女史に可愛がられていたので、いつもこんな風に招かれることがあるのであったが、その時も応接間に通されて、女史から仏蘭西行きの参考になるような話を聞きかけていた。巴里で数年間修行をした経験を持つ女史は、妙子にも是非一度行って来るようにすすめ、自分も及ばずながら紹介の労を取るからなどと云いながら、眼の前でアルコールランプを点じて珈琲を沸かしていたが、その間も雨は恐ろしく降り続けていたので、まあ、どうしましょう、これではよう帰りません、…… 「細雪(中)」75~76p 新潮文庫

 

この玉置徳子女史が、田中千代をモデルにしていると言われています。実際に四女の信子がこの頃、田中千代洋裁学院に通っていたことは事実です。田中千代の戦後の活躍はよく知られていますが、戦前の彼女がどのようであったのかを、「細雪」から垣間見ることができるのです。

 

www.youtube.com

昭和13年阪神大水害記録フィルム(1) 音声は入っていませんが、当時の様子がよくわかります。

 

 

バウハウスクチュリエ、そして教育者へ

 

戦前、どのような活動をしていたのか、田中千代本人の証言が残っています。

20世紀日本のファッション―トップ68人の証言でつづる

20世紀日本のファッション―トップ68人の証言でつづる

 

 「20世紀日本のファッション‐‐トップ68人の証言でつづる」48~54p 源流社 

 

昭和三年(1928年)に地理学者である田中薫と結婚、その4年後に文部省の在外研究員に選ばれた夫とともにイギリスへ。その後パリに滞在し、アートやオートクチュールの世界を見、芸術と技術に触れます。ある日パリで見たバレエ公演の衣装に感銘を受け、デザイナーを探し出しすと、チューリッヒ在住のオットー・フォン・ハスハイエと判明。彼の学校モーデ・ウント・トラハト・シューレ(流行と衣装の学校)に入学し、バウハウスを学びます。昭和六年(1931年)夫共に、ニューヨークへ移動。ここでハスハイエから紹介されたトラペーゲン・スクール・オブ・ファッションに入学し、ドローイングから縫製までを一貫として学びます。

 

ニューヨークから帰国する船の中で、鐘紡紡績の社長夫人、武藤千世子と知り合い、それがきっかけで、昭和七年(1932年)心斎橋に開設されたカネボウ・サービス・ステーションのデザイナーとして勤務することになります。その後、自宅で小さな洋裁教室を開いたのが、田中千代洋裁学院の始まりでした。

 

昭和七年ごろ、マダム・マサコまだ少女時代を大阪で過ごしており、堂島ビルにあった、堂ビル洋裁学院に通っていました。堂ビル洋裁学院のことがわかる資料はあまりないようで、どのような学校だったのかはよくわかりません。ただ、ciniiや国会図書館デジタルコレクションなどで検索すると、平川芳太郎という人の著書が出てきます。この人が堂ビル洋裁学院の運営に関係していたのかもしれません。

 

現在、田中千代といえば、洋裁を習い事から学校教育へと展開し、教育者の面での記憶や評価をされていることが多いと思います。しかし、ドレスメーキング杉野芳子や、桑沢デザイン研究所桑沢洋子田中千代らの戦前からの活動が、敗戦後の爆発的な洋裁ブームを支える役割を果たしたわけであり、彼らが戦前、どのような教育を受けたか、どのような活動を行ってきたかを無視することはできないと思います。

 

また、千代や桑沢洋子、山脇道子など戦後活躍した日本人がバウハウスを学んでいるという共通点があることが、大変面白いと思いませんか。

 

 

渋谷ファッション&アート専門学校(前 田中千代ファッションカレッジ)

田中千代の足跡がまとめられています。

https://www.shibuya-and.tokyo/fashion/school/tanakachiyo/