マダム・マサコがいた時代

戦後、デザイナー、ジャーナリストとして活躍した女性、マダム・マサコの足跡を追いながら、戦後女性誌の変遷もあわせて見ていきます。

マダム・マサコの活躍の場のひとつ「装苑」

戦後の「装苑」は最初期のマダム・マサコの活躍の場のひとつ。

 

ヤフオクという沼にずるずるとハマりながら、古雑誌を集めております。

最近購入したのは、昭和24年から昭和33年までの「装苑」。

マダム・マサコが活躍した媒体のひとつです。

 

国立国会図書館サーチで検索してみますと、

彼女の名前が「装苑」に初めて見られるのは昭和25年(1950年)。

その後昭和36年(1961年)11月号まで、確認できます。

 

でも国立国会図書館サーチは万能ではなくて、

宇野千代が編集していた雑誌「スタイル」にも、マダム・マサコは寄稿していますが、

それは検索結果には出てきません。

おそらく国会図書館が「スタイル」を蔵書していないのでしょう。

このあたりは、大宅壮一文庫のほうが得意だと思います。

昭和24年から昭和33年までの「装苑」ずらりと。

古書店がアップしている古雑誌をチェックしていくのですが、目次をアップしてくれていると、内容や寄稿者などの顔ぶれもわかり、特にマダム・マサコの名前が挙がっているものに出会うと狂喜乱舞します。

 

 

デザイナーとしてのマダム・マサコ

 

今回購入した6冊の中で、マダム・マサコが寄稿した記事もいくつか見つけましたが、

彼女がデザイナーとして、作品を発表しているものがありました。

 

装苑」昭和29年(1954年)5月号

 

「若い人でもくろ」というテーマで制作されたワンピースとコートです。

こんなコメントを寄せています。

 

日本のように、季節のうつりかわりのはげしい、雨もよく降るとこでは、いろんな風に着かえられる点、向くのではないでしょうか。

下のワンピースも黒いウールにベルトはカンガルーの皮です。

黒い色は若い人には地味すぎるという観念は、外国にはあまりないようです。

年令ではなく、黒がその人の個性に合ってる場合ならいいわけで、色が白いから黒が似合うなんて‐‐‐ 人間はそんな単純なものから出来上がっていない筈です。(9p)

 

まさにタイムレスなデザインのシックさが表現されたワンピースとコート。

コートの裏と襟は色替えされていて、折り返されたベルスリーブからも

色がこぼれて、差し色の効果を生んでいます。

 

現代では、年齢にかかわらず、女性が着る黒はシックであるとされていますが、

昭和29年では、まだそういう認識がなかったのでしょう。

マダム・マサコは自身の著書でもしきりに、黒を着ることのシックさを解説しています。

 

コメントも見事にマサコ節が炸裂しています。

「若い人」は漢字で、なぜ「くろ」ってひらがななのでしょうか。

「いろんな風に着かえられる点、向くのではないでしょうか」って、

なぜ助詞、省くのでしょうか。

マダム・マサコ独特の語り口は、その魅力のひとつでもあります。

 

 

この号の表紙と目次はこんな感じです。

 

 

なんと、クリスチャン・ディオールから「装苑」とその読者に向けて、

メッセージも寄せられています(20p)。

前年昭和28年(1953年)に、ディオールのファッションショーが、

文化服装学院の招きで来日し(と、記事に書いてあるけど本当かしらん)、

一大ブームを引き起こしており、ディオールのデザイン動向に、各雑誌が右往左往していたようです。

このほか、マダム・マサコは「耳とイヤリングの話」という、エッセイも寄稿していますので、またご紹介したいと思います。

 

 

マダム・マサコ #装苑 #クリスチャン・ディオール