ファッションデザイナーとしてのマダム・マサコの位置づけとは。
明治38年(1905年)「婦人画報」創刊から70年後の昭和50年(1975年)に発行された「婦人画報創刊70周年記念 ファッションと風俗の70年」に、「ファッションデザイナーの系譜と活動」という記事があります。
この本、当時1800円という価格で販売されましたが、現在ではそれ以上の価格で取引される人気の古書。明治時代から昭和50年までのファッション史がまとめられています。
ファッション評論家・林邦雄が記したこの記事は、明治時代から昭和50年ごろまでの日本のファッション界にどのようなデザイナーがいたかを紹介するもので、特に戦後にかけてはその状況の解説など、かなり詳細に説明されています。
戦後、デザイナーという言葉が登場したのは、昭和二十四年頃からである。(中略)この時期が事実上、仕立屋とデザイナーの分離期にあたる。(222p)
戦後、衣食住すべてに事欠く時代にあって、洋裁ブームは凄まじかったようで、
昭和二十四年、二十五年頃から、洋裁学校の数三千校を超え、生徒数も三十万人を数えた。
その勢力分布図は、文化系四十、ドレメ系四十、田中千代系六、伊東茂平系四、山脇その他大勢といったところだった。源氏(文化)、平家(ドレメ)、その上に貴族(田中)と公家(伊東)が君臨しているといった図である。誇り高き教壇派の大御所デザイナー達だ。
戦後デモクラシーの波にのって、雨後のタケノコのように増えたのが洋裁学校とファッション雑誌であった(222p)
源氏と平家と、その上の貴族、公家という比喩が非常にオカシイ。
戦後デザイナー 第一期から第四期まで
林邦雄は、戦後デザイナーを第一期から四期までに分け、紹介しています。
第一期デザイナー
まさにパイオニアであった人達。
第二期デザイナー
海外のものをただ受け入れるだけでなく、日本の風土や経済状態、日本人の体に合わせて「日本化」させようとした人達。
第三期デザイナー
新時代の機運に乗じ、「華やかに開花したマスコミに乗って」登場した人達で、第一にマダム・マサコの名前が挙がっている。
マダム・マサコ、伊藤すま子、伊東達也、安東武男、原口理恵、島村フサノ、松田はる江、諸岡美津子、三富康恵、鴨井洋子、金子光子、河合玲、森英恵、細野久、中嶋弘子、中林洋子、鈴木宏子、牛山源一郎、久我アキラ、植田いつ子、芦田淳、水野正夫、水野和子、南玲子、近藤百合子、中村乃武夫、ルリ・落合、西田武男、メイs・青木、
関西では、国松恵美子、近藤年子、立亀長三、坂本章恵、段中美恵子、上田安子、三浦喜余子、名古屋では、小沢喜美子、加藤代志。
第四期デザイナー
1960年代の高度成長期に登場してきた、昭和二けたに時代に生まれた人達。
コシノ・ジュンコ、コシノ・ヒロコ、鳥居ユキ、伊藤公、鈴木紀男、菊池武夫、花井幸子、高田賢三、やまもと寛斎、三宅一生、松田光弘、金子功、熊谷登喜夫、藤堂正男、池田貴雄、多田敦子、佐藤賢司、伊藤幸雄、佐藤昌彦、川上繁三郎、倉屋ゆうじ、長沢洋、長谷川志郎、松田数々六、後藤和男、鹿間弘次、森陽子、吉田ヒロミ、山県清臣、藤堂紀代子、山路妙、坂東京子、椎名アニカ、大野ノコ。
マダム・マサコは、第三期の筆頭格に挙げられています。
マダム・マサコの戦後から昭和30年代の活躍は、雑誌と新聞の連載、著作の出版、また、週刊誌ネタにもなったスキャンダルにも巻き込まれたりと、まさにメディアの寵児だったのでした。