マダム・マサコがいた時代

戦後、デザイナー、ジャーナリストとして活躍した女性、マダム・マサコの足跡を追いながら、戦後女性誌の変遷もあわせて見ていきます。

昔も今も外国人の街、銀座

外国人観光客の街、銀座

 

先日、所用があり久しぶりに銀座に出てみました。毎度のことながら、外国人観光客が本当に多いです。中国人観光客が最も多いようですが、欧米系の観光客も以前より増えているように見えます。

 

銀座と一口に言っても、四丁目の交差点から新橋寄りか、京橋寄りかによって違うと思います。やはり新橋寄りのほうが、外国人観光客が多い印象があります。中国人観光客のツアーバスが停まるラオックスや、中国人女性が溢れているファンケル、欧米系の観光客がひしめく鳩居堂など、観光客が押し寄せるポイントがたくさんあります。

 

明治時代の銀座、それも新橋寄りは、

そもそも外国人の多い街だった。

 

そう考えると、歴史的にみても新橋寄りに外国人を引き寄せるものが多いような気がするのです。例えば、明治5年(1872年)に開通した新橋~横浜間に鉄道が開通したことから振り返ってみることができると思います。

 

この鉄道開業時の明治5年、現在の東京銀座資生堂ビル(中央区銀座8-8-3)に洋風調剤薬局資生堂が開業したのも、創業者である福原有信の慧眼によるものと考えられないでしょうか?近辺の居留地・築地のみならず、鉄道開通によりさらに横浜からも外国人客が見込めるわけです。また、明治7年(1874年)には、聖路加国際病院の前身の健康社築地病院が開院したことにより、新橋駅から通院する外国人客をも取り込むことができたはずです。

 

 

さらに時は経ち、明治19年。ピエール・ロチの「江戸の舞踏会」に新橋駅の様子が描かれています。ピエール・ロチは、明治18年(1805年)にフランス海軍の将校武官として日本を訪れ、日本在住体験から幾編もの自伝的作品を手掛けた小説家です。「江戸の舞踏会」を読むと、明治19年の新橋駅、そして鹿鳴館の様子がよくわかります。この作品の冒頭、鹿鳴館で日本政府主催のパーティが開催され、横浜に居住している外国人たちが多く招待されます。新橋行の列車の時刻と、パーティー後の深夜、横浜まで特別に走らせる臨時列車の時刻が書いてある招待状が届くシーンから始まります。

 

 十一月のある日、ヨコハマ湾に停泊中のわたしのところに郵便で届いた、隅々を金箔で塗った一枚の優美なカードに、こうフランス語で印刷してあった。裏面には草書体の英字で次のような案内が肉筆でつけ加えてある。「お帰りには特別列車が午前一時にshibash[新橋]駅を出ます。」

 このコスモポリットなヨコハマにきてまだ一日しか経たないわたしは、いささか驚いて、小さなカードを指のあいだでひねくるのである。(中略)

 行程一時間、そうしてこの舞踏会の列車はエドに着く。

 ここでまだびっくりする。わたしたちはロンドンか、メルボルンか、それともニュー・ヨークにでも到着したのだろうか?停車場の周囲には、煉瓦建ての高楼が、アメリカ風の醜悪さでそびえている。ガス燈の列のために、長いまっすぐな街路は遠方までずっと見通される。冷たい大気の中には、電線が一面に張りめぐらされ、そうしてさまざまな方向へ、鉄道馬車は、ご承知の鈴や警笛の音を立てて出発する。

ピエール・ロチ「江戸の舞踏会」(『秋の日本』角川文庫 昭和28年)より

 

ロチが横浜駅から列車に乗り、着いたエドとは新橋駅です。ロチが実際に鹿鳴館に招待されたのは明治18年のことらしいのですが、そのときにはすでに欧米的建築を擁した駅舎と周辺が存在していたのでしょう。アメリカ風の醜悪な、とロチは言っていますけれど。

ピエール・ロティ - Wikipedia

 

GIたちが闊歩した戦後の銀座

 

外国人客への取り込みを目指したのは資生堂だけではないと思います。のれん分けを経て、明治27年(1894年)に銀座8丁目に開業した新橋千疋屋(現・銀座千疋屋)も、聖路加へ通院する外国人客の取り込みをもくろんだと思われます。

 

で、突然明治の話から、私の論考は戦後に飛ぶのです(笑)

昭和20年(1945年)、多くの施設をアメリカ軍に接収されていました。時系列で見てみましょう。

 

8月 

RAA(特殊慰安施設協会)により、バー・ボルドー(将校クラブ、8丁目)、伊東屋(ダンスクラブ、3丁目)、千疋屋(キャバレー、8丁目)が接収。

9月

銀座ビヤホール(7丁目)再開後接収。

銀座松屋の一部接収。

服部時計店(現・和光)がPX(占領軍用売店)として接収。

10月

松坂屋(5丁目)地下に、RAAが「オアシス・オブ・ギンザ」を開店。

表向きはダンスホールで約300人の日本人女性はダンサーだったが、実際は「進駐軍慰安施設」だった。

p88 「銀座社交飲料協会八十年史」より

 

服部時計店がPXだったのは今でもよく知られています。千疋屋がキャバレーだったというのも驚きです。ダンサーが150人在籍していました。

 

しかし最も驚くべきは松坂屋、現・銀座シックスの地下が「オアシス・オブ・ギンザ」という、ダンスホールという体の慰安施設だったということです。

 

戦後直後はアメリカ兵が日本女性を相手にダンスに興じ(それ以上の「接待」ももちろんありました)、戦後70年経ったいま「オアシス・オブ・ギンザ」の跡地、銀座シックスでラグジュアリーブランドで買い物するのは中国人観光客に変わりました。

 

アースダイバーではありませんが、土地には記憶があって、銀座、中でも新橋寄りの7丁目、8丁目には、外国人客を相手に商う、という記憶があるのかもしれません。

 

 

 

マダム・マサコがブティックを構えたのも銀座。そして私が一番好きな街でもあるのです。