マダム・マサコがいた時代

戦後、デザイナー、ジャーナリストとして活躍した女性、マダム・マサコの足跡を追いながら、戦後女性誌の変遷もあわせて見ていきます。

土門拳が見たマダム・マサコ

土門拳といえば、戦後の日本を代表するフォトグラファー。代表作もたくさんありますが、よく知られているものとしたら「筑豊のこどもたち」や「古寺巡礼」などが挙げられるでしょうか。

 

筑豊のこどもたち

筑豊のこどもたち

 

 

 

土門拳の古寺巡礼

土門拳の古寺巡礼

 

 

土門拳は写真のみならず、エッセイにも才を見せていました。戦後の日本において、対象が見せる瞬間を写真で、またエッセイとして切り取り、伝えることのできる多才な人でありました。

 

土門拳は、マダム・マサコについてのエッセイも書いています。

 

マダム・マサコの頬骨

 

 有名な洋裁家マダム・マサコさんは、高い頬骨をもっていられる。それに大体がゆたかな肉付きの人なので、その頬骨も高く尖っているというよりは、ゴムまりのようにまるまると盛り上がっているのである。そのまるまると盛上った頬を紅で丁度日の丸のようにまるくぼかしていられる。ぼくはマダムの日の丸のように色取られた赤い頬を見るたびに正倉院の鳥毛立女屏風の天平美人を想い出すのである。マダムはいわゆる美人型の美人ではないが、健康な生き生きとした表情をもっていて、十分に近代的な美人である。

 ぼくは前々から一度マダムを撮りたいと思っていたが、マダムが「モード案内」という著書を出すに当って、その機会に恵まれた。ぼくはマダムのアトリエで何十枚もの写真を撮った。いや、著書の口絵としての写真は一枚しか要らなかったのであるが、マダムのまるい頬の魅力に引かれて、つい何十枚もシャッターを切ってしまったわけだった。ところが、出来た写真は全然マダムのお気に召さなかった。「あらあ、土門さんはわたしの頬骨が高く見える角度でばっかりお撮りになったわ。わたしがいやだいやだと思っているのにーーー」というわけである。ぼくとしては、マダムの最も魅力的なアングルとチャンスにおいてシャッターを切ったはずだったのに、いすかの嘴の食い違い、すっかりマダムの御機嫌を損じてしまった。

 

p194ーp195 「死ぬことと生きること」土門拳 築地書館 1974年

 

 

死ぬことと生きること

死ぬことと生きること

 

 

土門拳は、戦後最初のマダム・マサコの著書「モード案内」でフォトグラファーの1人として参加しています。戦後直後の土門拳は「婦人画報」などの女性誌での仕事も多く、マダム・マサコとはその際に知り合ったようです。

 

数少ないマダム・マサコの写真を見ると、確かに頬骨の位置が高く見えます。最近では、ハイチークボーンといって美人の条件のように言われているのですが、この頃はそうではなかったのでしょうか。

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土門拳が撮影したものかどうか、わかりませんが、「モード案内・1」に掲載されているマダム・マサコの写真はこれだけです。

「モード案内・1」婦人画報社 昭和25年(1950年)

 

一番左側で針仕事をしているのがマダム・マサコです。場所は彼女のブティックかと。頬骨というより、すっきりとしたフェイスラインと、マダムの風格が感じられる一枚だと思います。彼女のサロンは銀座にありました。それは当時としてはかなりユニークなものだったそうですが、そのことはまた。