マダム・マサコがいた時代

戦後、デザイナー、ジャーナリストとして活躍した女性、マダム・マサコの足跡を追いながら、戦後女性誌の変遷もあわせて見ていきます。

昭和25年の田中絹代は、なぜバッシングにさらされたのか。

 

田中絹代が輝いていない、映画「宗方姉妹」

 

あることを調べていて、その参考に小津安二郎監督作品「宗方姉妹」を見ました。

田中絹代高峰秀子が主演しています。

https://images.justwatch.com/poster/11789466/s718/zong-fang-zi-mei

 

この作品は昭和25年度の興行収入1位も獲得し、当時は人気作品だったようです。しかし現在では、小津安二郎作品の中でも、特に評価が高いというわけではありません。

 

「晩春」(昭和24年)「麦秋」(昭和26年)そして「東京物語」(昭和28年)と、のちに紀子三部作といわれる作品と比べると、評価はいまひとつのようです。「晩春」と「麦秋」製作の間に挟まれており、地味な印象です。

 

小津監督の演出はいつもながらなのですが、どうにも田中絹代に輝きがないのです。むろん、そういう役回りではあるのです。新しい生き方をまっすぐに模索する妹と、これまでの考え方を頑なに守る姉。その対比が物語のキモなので、旧い女を演じる田中絹代は一見、部は悪いのですが、とはいえ覇気が感じられないのです。

 

そこで当時の田中絹代を調べてみると、面白いことがわかりました。田中絹代は日米親善使節に推挙され、ハリウッド訪問、パレードなどをこなし帰国したのですが、その時のアメリカかぶれしたようないでたちや振る舞いに避難が殺到。その後の出演作もことごとく酷評され、大バッシングの渦中にいたようなのです。「宗方姉妹」はまさに収まらぬバッシングの最中に撮影されたのです。

 

と思っていたら、高峰秀子がこの作品で共演した田中絹代について詳細を書き残していました。彼女のエッセイ集「わたしの渡世日記(上)」に収録されている、「鬼千匹」です。

 

少し引用してみましょう。

私は、ジャーナリズムに殺されかかったことのある、一人の女優の実例をここにあげよう。その人の名は「田中絹代」。(中略)

私の知る限りの田中絹代は、その事件が起こるまでは、たしかに、波ひとつない海面に、美しい帆をあげて順調な航海を続ける、優雅で麗しい「女優」という名のヨットであった。(中略)

それは第二次世界大戦が敗戦に終わり、周りの状況がなにもかも大きく変わろうとしていた矢先のことであった。(中略)すべての日本人が迷いに迷って、それでも出口のみつからない戦後のどさくさの中で、田中絹代も小さな胸を痛めていた。

 

 そんな田中絹代のもとへたまたま転がり込んだのが「日米親善使節」としてハリウッド訪問をして欲しいという話であった。   

 

「鬼千匹」(わたしの渡世日記」)より

 

 

田中絹代は、高価な能衣装をまとい、大勢のファンに見送られて羽田からロサンゼルスへ旅立ち、現地で親善使節としてパレードなど、多忙な日々を過ごしたようです。そのときの田中絹代の胸中を、高峰秀子はこんな風に書いています。

 

親善旅行の大役という緊張もさることながら、この好機を利用して女優としても見事に「変身」したいという思いでいっぱいであった。(中略)「日本に帰ったら、今までとは違う、新鮮な田中絹代を見てもらおう。古い殻を脱ぎ捨てて生まれ変わった田中絹代をファンの前にご披露しよう」。

「鬼千匹」(わたしの渡世日記」)より

 

田中絹代は、この洋行を機会に、自身のイメージに変化をもたらし、女優として再出発するつもりだったのでしょう。

 

ハワイ経由で帰国した田中絹代を出迎えようと、羽田にはマスコミとファンがつめかけていました。飛行機から降りてきた田中絹代を見て、一同はあぜんとするのです。

 

ハワイ経由の田中絹代の胸には頬が埋まるほどのレイがかけられ、大きなサングラスに最新流行の洋装、黒い手袋をつけた手が、やおら動いたとたんにその手が真っ赤な唇にあてられて、幾度かの投げキッスが迎えた人々に向かって送られたのである。

大和撫子田中絹代、歓迎」の人々は、あるいは呆然と立ちすくみ、あるいは踵を返して彼女に背を向けた。報道陣の笑顔は、一瞬にして、「鬼千匹」に変わっていた。

「鬼千匹」(わたしの渡世日記」)より

 

それからというもの、田中絹代毎日新聞以外のすべての新聞(この親善使節の仕切りが毎日だったため)、すべての雑誌から、大バッシングに遭い、「アメション女優」という侮蔑的な言葉まで投げかけられます。

 

「アメション」とは、アメリカで小便してきただけ、つまり短期間しか滞在していないくせに、感化されたという意味。こんな言葉を造成してまで田中絹代を叩く、バッシングの凄まじさが伝わってきます。洋装に投げキッスをしただけで、こんな下劣な言葉で評される必要があったのかと思うほどです。

 

そして、このバッシングの嵐の中、小津安二郎の「宗方姉妹」の撮影が始まるのです。高峰秀子は戦前から何度も田中絹代と共演してきましたが、演技にこれまでにない迷いや逡巡を感じ、小津安二郎をいらだたせてしまい、慰める言葉もなかった、と書いています。またロケ中に、田中絹代から自殺をするほど悩んだと聞き、女優生命だけでなく、本当にひとりの女性が生命を断つことまで考えさせるマスコミに対し、高峰秀子は憤ります。

 

田中絹代の輝きのなさは、このバッシングがもたらしたのではないでしょうか。その陰が、この映画に表出しているのかもしれません。

 

昭和25年の日本人の羨望と鬱屈

 

戦後メディア、特にこの時期の女性誌を見ていると、欧米文化への憧れを強く感じます。それは急激に高まった洋裁ブーム/洋裁学校ブームとなり、また、英語を学ぶ機運も一気に高まります。「日米会話手帳」は、戦後の最初のベストセラーとしてよく挙げられることはご存じの方も多いと思います。それほど、欧米、とくにアメリカへの憧れは大きかったわけです。

 

それがなぜ、田中絹代の生命をも揺るがすような、大バッシングに転じるのか。急激な欧米化を積極的に受け入れ、貪欲に消化しようとする反面、田中絹代には大和撫子であってほしいと願い、その期待が裏切られたと思うや否や一方的に叩きのめす。当時の日本人の鬱屈した心理がそこにあるように思います。

 

さすが宇野千代!「スタイル」昭和25年4月号から。

 

しかし、やはり宇野千代は違います。「スタイル」昭和25年4月号で、訪米の様子を田中絹代にインタビューしているのです!さすが千代。インタビューの詳細はまた次回に。

 

 

 

 amazonでレンタルもできます。400円から。

宗方姉妹

宗方姉妹

 

 

 高峰秀子の自伝エッセイ。名著。

わたしの渡世日記〈上〉 (文春文庫)

わたしの渡世日記〈上〉 (文春文庫)